「むらさきのスカートの女」 今村夏子
2019年の芥川賞受賞作。
作者のデビュー作「こちらあみ子」はとても印象に残っている。
とは言っても粗筋なんかはほとんど忘れてしまっている。
それでも、読んでいる時にどんどん“嫌”な気持ちになった、あの感覚だけがずっと尾をひいているのだ。
繰り返し読みたいとか最新作は欠かさず読もうなどとは到底思えず、以来どちらかと言えば敬遠していた。
けれども作者のことは、小説家として素晴らしいと思っていた。
忘れっぽい私が何年もあの“嫌”な気持ちを引きずるような、力のある小説を書けるのだから。
なので芥川賞を獲ったときも、不思議には思わなかったし(時々疑問に感じる人もいる)友人たちも絶賛していたので、そろそろまた今村さんを読んで見るか、という良い契機となった。
やっと本題。
「むらさきのスカートの女」の感想をいうなら、思っていたほど“嫌”ではなかった。
「こちらあみ子」レベルを想像していたので、少し拍子抜けしたのが本音だ。
むらさきのスカートの女をストーカーする女が主人公だ。(この設定からして喜劇の予感しかしない)
初めの方はいかにむらさきのスカートの女が変人であるか執拗に描写し、その隙間に主人公の不可解なエピソードが挟まれる。
物語が進むに連れ、むらさきのスカートの女は普通の人間になって行き、あとにはただ主人公の異常さが露わになる。
物語の中でちらっと顔を見せていた人物が実は主人公だった、なんていう仕掛けもされている。
うーん。いかにも作った感。
あみ子の生々しさはどこへ行ったのだ!
もう読みたくないとか言っておいてなんだが、あみ子はすごかった。
あの生理的な“嫌”さに比べれば、計算しながら書いたでしょ、という部分があちらこちらに見えて鼻につく。
ミステリ的な書き方をした弊害なのかもしれないけれど。
あの唯一無二の毒は、あみ子だけだったのだろうか。
それを確かめるためには「あひる」「星の子」を読まなければならないけど、どうしたものか…。
【追記】
装丁について。
2人の人物がかぶっているスカートのような布が、むらさきじゃないんかーいと思ったけれど、読後は一緒にかぶってるてところがね…と思うようになった。
「祝祭と予感」 恩田陸
恩田陸の小説はかなり昔に『夜のピクニック』『ネバーランド』『木曜組曲』を読んで以来手にとっていなかった。
なんとなく文章が合わない。
時々出てくるマンガの吹き出しのような表現に興醒めするのだ。
そんなわけで少し前に手にとった『蜜蜂と遠雷』は、なぜ読もうと思ったのか思い出せずにいる。
映画化や文庫化で話題になっていたからだろうか。
直木賞を獲ったことは読み終わった後知ったから、それが原因ではないはずだ。
とにかくあまり期待していなかったのだが、読み始めると予想に反して楽しく、ぐんぐんと読めた。
ピアノコンクールを舞台に参加者であるコンテスタントやその家族、友人、先生など多彩な登場人物が物語を彩っていく。
演奏シーンでは耳で聞く音楽を言葉にするのは難しそうなのだが、性格や資質に合わせて見事に書き分けている。
単行本の上下巻を一気に読み通し、とても満足してページを閉じた。
前置きが長くなったが、『蜜蜂と遠雷』の読了後すぐに番外編であるこの短編集を図書館で予約した。
だがしかし今回は逆の意味で予想に反していた。
同じ作者なのか疑うレベルの文章のまずさに唖然とする。おまけに行稼ぎなのかスカスカだ。
ストーリーもどこかで読んだような凡庸なものばかり。
ファンが書いた同人誌かと錯覚する。
番外編なのだから、脇役も含めた登場人物のちょっとしたサイドストーリーが読めれば満足する読者も一定数いるかもしれない。
だが私は本編ありきではなく例えばの話、この短編集だけでも成立するような、1編の小説として読ませるような、そんな本を上梓してほしいと心の底から思う。
本編がおもしろかっただけに残念、の一言に尽きる。
「あの素晴らしき七年」 エトガル・ケレット
彼の息子が生まれた年から、彼の父親が亡くなる7年分が収められている。
勉強不足でイスラエルについての知識があまりなかった。
なのでテロや戦争がすぐ身近にあったり、両親はホロコーストの生存者、兵役中彼が目を離した隙に鬱病だった親友が自殺、身内の宗教問題…などその一つを背負うだけでも苦しい彼の生活に驚きつつ、その中でも常にユーモアを失わず飄々としている様子にもっと驚かされる。
だがその諧謔はそういった厳しい環境を生き抜くために彼の中に培われたのではないだろうか。
映画『ライフ・イズ・ビューティフル』のように。(この映画の主人公もユダヤ系だ)
日本に住む日本人である私にとってもその少し悲しくて寂しいユーモアは必要なものだ。
だからだろうか、住む世界は違っても根底にあるものは共通していると感じるのは。
彼の作品が世界各国で翻訳されていることにも頷ける。
少し前に小説「クレネルのサマーキャンプ」を読んでいたが、このエッセイのほうが読みやすかった。
1編が5ページ未満のショートショートなのでとっつきやすいのも良い。
小説はここに奇想天外成分が加わるので、人を選ぶと思う。
「この人の閾」 保坂和志
「ものを書く人のかたわらにはいつも猫がいた。」をテーマにした『ネコメンタリー 猫も、杓子も』で保坂和志を見た。
予想通りかなりめんどくさそうなおじさんで、とても好感を抱いた。
私はひねくれものが好きなのだ。
表題作『この人の閾』は1995年上半期の芥川賞受賞作。
そのほか3つの短編が入っている。
どれもがストーリーらしきものはほとんどない。事件もおきない。
また『東京画』を除き、小説内の時間経過はせいぜい半日、登場人物も2〜3人(回想の中も含めて)である。
では何が書かれているのかと言えば、日常生活における“会話”と“風景描写”だ。
その“会話”と“風景描写”がすこぶるおもしろい。
心理描写ももちろんあるが思考の流れを淡々と追っているだけで説明臭さはない。
読みやすい文章ではないのだが、リズムを掴むとするすると読める。
そして物語は突然終わる。
え?ここで終わるの?!と最初は面食らうのだが、収録作品全てそうなのだから意図的だ。
わざと最後をブチンと切ってしまうことでホームビデオのように、ある人たち時間の一部を鮮やかに切り取ってみせる。
なので小説を読み終えても、登場人物たちがそのまま暮らしていくだろうと想像させられるのだ。ビデオ撮影が終わった後でも我々の日常がずっと続くように。
ストーリーを重視しない小説のおもしろさも分かったことだし、次は長編も読んでみたい。
「シックス・センス」
1999年にアメリカで公開された本作。
私も日本公開時に友人と映画館へ観に行きました。
当時流されていたCMに「オチは言わないでね」と注意があったように記憶しているのですが、まぁそうだよね、と。
製作者の意図にどっぷりハマり、おお〜!と感心した口なので、とかく忘れっぽい私でもさすがにオチは忘れておりません。
昨日BSで放送されていたのを、公開時以来、2度目の鑑賞したのですが、こんなにもフェアにヒントを出していたのか!すごいな!と初見時とは別の部分に大いに感心いたしました。
とはいえ、やっぱり1度目の衝撃に比べたら、物の数ではないかなと。
映画やドラマって何度観ても楽しめるものもありますが、私とって『シックス・センス』はそうではなかったかな。
お母さんが優しい人で良かった。
「ふたりは友達? ウィル&グレイス」
昔NHKで放送されていたアメリカのシュチュエーショ・コメディ『Will & Grace』が、Netfilxで配信されていたので観てみました。
ウィルがゲイ…ぐらいしか記憶に残っていなかったので、今見返すと色々と思うところがあったのですが、いちばん気になったことを書いておきます。
あくまでコメディなので、基本明るく楽しく進んでいくのですが、よくよく考えてみると主人公の2人って実はとても切ない関係なのではないかと。
お互いが親友だと認め合い、ケンカしながらも仲の良い2人。
親からは結婚を期待され、親しい友人たちからも“夫婦”と呼ばれ、からかわれるぐらいなのに、恋愛対象にはならないし、なれない。
2人だけの世界ではどんなに完璧でも、現実に返ればどちらも自分に適した別の相手とちゃんと恋愛がしたいと望んでいる。
お互いを必要とし理解し合え誰よりも近しさ慕わしさがあっても、寂しいと感じてしまう…これって想像以上にきつい状況なのではないでしょうか。
特にグレイスはストレートなので、ウィルを恋愛対象として見たいという気持ちを捨てきれていないように私には見えました。
最初、邦題に“ふたりは友達?”とあったのを「そりゃ片方がゲイなら友達に決まってるだろうよ」と思っていたのですが、今では付けた人の気持がよく分かります。
Netfilxでは現時点でシーズン2までしかないので、2人がどう変わっていくのか全8シーズンに加え11年ぶりに復活した数シーズンもまとめて配信されて欲しいものです。
「夜と霧の隅で」 北杜夫
私の本棚には未読本が積み上がった一画がある。
休みの間に少しでも減らそうと、その中でもかなり古いものを今回手に取った。
初の北杜夫。
芥川賞を受賞した表題作を含めて5作品が収められている。
共通しているのは“死”と“狂気”だろうか。
作者が精神科医であるだけに特に“狂気”が驚くほど近くに感じられる。
自分も狂うのではないか、すぐ傍にいる身近な誰かがおかしくなるのではないか、という恐怖が目の前に迫ってくる。
例えば表題作のドイツ人精神科医ケルセンブロックがそうだ。
彼はナチスによって不治と判断され粛清される患者たちの収容所行きを回避するため、一縷の望みを託して過激な治療を施していく。
それは傍目からは蛮行にしか見えないが、元々は患者を一人でも救いたいという切実で人間的な感情に突き動かされてたことに始まっている。
彼だけは他の医師のように黙って患者を差し出すことをせずに抗った。
そのたったひとり抵抗したのが研究者肌の彼だったというのも皮肉が効いている。
積極的に患者と接し臨床に力を入れていた他の医師は何も出来なかったのだから。
彼の医者としての純粋な想いが狂気じみていく過程が、あまりにも自然で恐ろしい。
誰にでも壊れてしまう可能性はあるのだ、と。
他の短編も良い作品ばかりだった。
私は特に「岩尾根にて」が好きだ。
ところでこの本、買った記憶すらないのだが、最終ページに古本屋の名前と値段(100円)が書かれた紙が付けられていた。
遠藤周作の「海と毒薬」→「白い人・黄色い人」の流れで、大学生の頃に買ったものかもしれない。
つまり、かなり昔、ということだ。
現行のものは装丁も替わっているし、時の流れを感じてしまう。