「世界でいちばん透きとおった物語」 杉井光

紙の本か電子書籍か。
どちらにも一長一短あるが、やがて紙の本は淘汰され絶滅はしなくとも愛好者の割合はどんどん減っていくのではないだろうか。
私は年齢的に幼い頃から紙の本に親しんできたし、今でも小説は基本的にそちらを選ぶ。なので紙派に味方したいし、なんならその良さを声高に叫びたい。
が、いったんその話は置いておく。
さてこの「世界でいちばん透きとおった物語」には電子書籍では不可能な仕掛けがまるまる1冊に施されている。
その仕掛けのために作者が費やした労力は並大抵ではない。
けれど残念ながらそれだけ、なのだ。
肝心の小説の中身がその仕掛けに見合っていない。
いや仕掛けにかけた時間や努力に見合っていないと言うべきか。
作家である父親が亡くなりその遺作を探す、というのがおおまかな筋だが、これがなんというか大味すぎて全然面白くない。
そして小説が面白くないばっかりにせっかくの仕掛けが生きてこない。
最後に仕掛けを使った作者からのメッセージがあるのだが、これがまた私の感性に合わず寒気がする。
もう少し物語に没入できていれば感動しただろうか。うーん。
この本の感想をぐぐってみたところ、案外好評で驚いた。
あまり本を読まない若い層には刺さるのかもしれない。
性格が捩くれ、底意地の悪い私には徹底的に合わない本だった。
「ビリー・サマーズ」 スティーヴン・キング
いわずと知れたアメリカのベストセラー作家である。
だが私にとっては映画『スタンド・バイ・ミー』の原作者というイメージが強い。
なのでホラー作家と紹介されるのを見るたびに「え、そうなの?」と驚いてしまう。
だが思い返せば『ミザリー』も『IT』も全部ホラーだ。
どちらも映像で観たのだが、ホラーが苦手な私は震え上がった。
特に『IT』は2夜連続で前後編が放送されていたドラマ版を最初に見て、これが本当に恐ろしかった。
とはいえ、ただただ怖いだけではなく、冒険ものとして胸躍る部分もあり、前編で懲りたのにも関わらず、翌日の後編も見ずにはいられなかった。
後編では前編で活躍した子供たちが大人になって再びピエロと闘うのだが「わざわざまた行くことないのになぁ」とは思いつつも、あの憎きピエロを何とかして欲しい!じゃないとトラウマになる!と思ったものである。
幸いトラウマになることもなく、2017年版『IT/イット“それ”が見えたら、終わり。』も視聴したのだが、まっっったく怖い思いをせず、むしろげらげら笑ってしまった。たぶんその原因はCGの多用だ。生の役者が演じる実感を伴った恐怖の前に作り物は勝てない。今しばらくは、と留保はつくが。
さて前置きが長くなったが、私の初キング『ビリー・サマーズ』の感想。

今さら読んでみようと思ったのは、とあるネット記事の紹介で興味を持ったからだ。
腕利きのスナイパーが〝最後の仕事〟のターゲットを待つため小説家に扮し、やがて本当に小説を書き始める、というのが序盤のストーリーである。
私は小説内小説が好きだ。
地の文と作中人物が書く小説の文体や受ける印象が違えば違うほど小説家の力量を感じるし、一度で二度おいしいお得感が味わえる。
今回は残念ながら翻訳小説なので、キングがどこまで文体をぶらして書いていたのか十全には感じ取れなかった。
けれどさすがというか当然というかエンターテイメント性が高く、ストーリーは二転三転し、次のページ次のページへと読ませる力がある。
とはいえエンターテイメント性というのは諸刃の刃で、申し訳ないがこの人物がこうするんだろうなーと読めてしまい、そしてもちろんその通りになった。
たぶんキングはわざと通俗的展開にしていると思われる。
なぜなら読者にそう求められているからだ。
あえて意表をつかず、安心安定のストーリーを読ませる、というのは存外難しいのかもしれない。
小説家として読者の意表をつく賭けに出るよりも、私のようにこの作品から入る読者にも分かりやすくキングらしさを見せてくれる、この抑制があるから長年キングの小説は売れ続けているのかもしれない。
以上が一作品を読んでみただけの感想である。
なので、また別の本を近々読むかもしれない。
ただし、ホラーは遠慮したいところだけど。
追記
『ミザリー』で主人公と私を恐怖のどん底に叩き落した女優キャシー・ベイツが引退するとのこと。
これを書くにあたり名前を見かけたばかりだったので、タイミングの妙を感じた。
「読んでばっか」 江國香織
作家による自作以外の本の紹介(書評、解説、エッセイ含む)、というジャンルが好きだ。
その理由は二つある。
・新しい本に出会うきっかけになる
・作家の好みや考え方など人間性が垣間見える
江國香織による、そのような本が上梓されたと聞きつけ早速図書館で予約した。
そうして読み始めてすぐ、「あーそうだった、江國さんってこんな感じだった」と懐かしい思いに捉われた。
我が家の本棚に江國作品は初期の『きらきらひかる』『落下する夕方』しかない。
どちらも高校時代に買ったもので、ほとんど読み返しはしないのだが手放すことなく、あるにはある。
『冷静と情熱のあいだ Rosso』やその他の作品は図書館や人に借りて読んだ。たぶん10冊くらい。
江國香織はやはり〝感性〟の人だ、は。
最初から最後まですべて江國フィルターがかかっている。
小説やエッセイを読む際、作者フィルターがかかるのは当然といえば当然なのだが、江國さんの場合、理屈は抜きにして、紹介する作品の手ざわり、肌ざわりをどことなしに夢みがちに語る。
〝感覚〟を言葉にすることにおいて彼女より上手い作家にそうそういない。
けれど『理屈は抜きにして』というのが、本の趣旨に合っていないのではないか。
これこれこういう部分が好き、という肝心の部分がすべて感覚(江國フィルター)なので、彼女と好みが合わなかったり、彼女の姿勢・生き方に憧れを抱いていないタイプの人間にはいまいち響かない。
ふわふわしすぎていて核心がよく分からないのと、私の好みが偏狭すぎて、読みたいを思えた本が一冊もなかったのは残念である。

読みながら歩くことについて
今年の春頃よりウォーキングを始めた。
休日に近くの公園を1周ぐるりと回り、平日は気が向けば最寄りの一駅手前で降りて歩く。
走るのは苦手だが歩くのは楽しい。
ぐんぐん歩く。歩ける。
けれど歩くことに慣れるに従って、この時間をもう少し有効に使えないものかと欲が出てきた。
タイパなどと言いたくはないのだが、景色はどうしても見慣れるし、コースを変えたとてそちらの景色もいつかは飽きる。
音楽を聴きながら歩くのも一つの手だが、鼻歌を歌ったり、振り付きで踊りたくなるので大変危険だ。不審者になりたくない。
歌いたくも踊りたくもならない、例えばクラシックやジャズなんかは残念ながら私の中でウォーキング向きの曲ではない。
そこで先月Audibleに加入し、オーディオブックを流しながら歩いてみた。
これがかなりしっくりきた。
会費はお高めなのでApple Musicにサヨナラを告げ完全に乗り換えた。
以降ウォーキング中はもちろん、通勤の電車の中やランチ後の仮眠の際に流している。
私は昔から常々夢の中でも本が読めたらいいなと思って生きてきた。
眠くなったり、眠らないといけないデッドラインの時間に佳境に入った本を閉じなければならないのは苦痛以外の何物でもない。
けれどオーディオブックがその苦痛を取り除いてくれるかというとそれは違う。
一ヶ月使用してみてのデメリット、それは〝集中力〟だ。
眠る前に集中力など使えないし使いたくない。
それに日中目が覚めていても他のことに気を取られたりすると、あっという間に聞き逃す。これは紙の本ではありえない。紙の本なら読むのをやめた時点ですべてが停止する。
あとこれは私だけかもしれないが登場人物が多いと覚えきれない。
海外の小説を読む時にも感じるのだが、どうやら私は登場人物を字(漢字)で把握しているらしく、カタカナや音で示されてもどうにも頭に残らない。
対策としては登場人物の出てこないビジネス書、または一度以上通読してある程度名前が頭に入っている再読本を流すのが良いのかもしれない。
再開します
定期的に文章を書きたくなる。
その時期がまた巡ってきた。
気持ちも新たに一からブログを作り直そうかとも思ったが、シンプルな体裁が自分好み(当たり前だ)で使いやすそうなので再利用することに決めた。
というわけで過去に書いた記事をすべて読み直してみた。
驚くべきことに、ほとんど忘れていた。
怖いくらいになにも覚えていなかった。
たとえば本についての感想も覚えていないし、なんならその本を読んだことさえ忘れている。
内容について、自分で書いたのだから共感はする(これも当たり前だ)のだけれど、まるで自分ではない誰かが書いたような心持ちになる。
私のドッペルゲンガーが書いたらこうなる、みたいな。
思い返せば私は日記をつけても読み返すことはほとんどない。
手書きの場合、まず字が汚くて萎える。
けれどブログであればその点がクリアされるせいか、けっこう楽しく読めはした。
が、やっぱり他人が書いたものを読むように読んだ。
この文章も、これから書く文章も、きっと何年後かには他人事として私は読み返すのかもしれない。


